Share

第6話 逃げた妻

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-28 11:33:24

 階段を下りてくる足音は、途中で一度止まった。

 第二保管室の扉は半分開いている。蛍光灯の白い光が、廊下の床へ細長くこぼれていた。

 美琴は二十二年前の身辺調査書と、三年前の医療資料を胸へ抱き寄せた。

 紙の角が腕へ食い込む。

 足音が再び動き出した。

 一段。

 また一段。

 革靴の硬い音だった。

 地下倉庫を日常的に使う社員なら、ここまで慎重には歩かない。誰かが中の様子を窺いながら近づいている。

 美琴は周囲を見回した。

 保管室の奥に、廃棄書類を運び出すための搬入口がある。普段は外側から施錠されているが、棚卸しの時期だけ鍵が開けられていた。

 扉へ駆け寄り、金属製の取っ手を押す。

 動かない。

 胸の奥に焦りが込み上げた。

 もう一度、体重をかける。

 錆びついた蝶番が低く軋み、扉がわずかに開いた。外から湿った空気が流れ込み、埃っぽい保管室の匂いを押し返す。

 美琴は身体を滑り込ませた。

 搬入口の外は、建物の裏手にある荷捌き場だった。昨夜の雨でアスファルトは濡れ、積み上げられた空箱から湿った紙の匂いが漂っている。

 背後で、保管室の扉が開いた。

「奥様?」

 男性の声だった。

 情報管理部の者か、総務の社員か。

 美琴は振り返らなかった。

 資料を腕へ抱え、荷捌き場を走る。普段履き慣れた低い靴なのに、足が思うように動かなかった。

「奥様、お待ちください!」

 声が追ってくる。

 美琴は駐車場の脇を抜けた。

 正面玄関へ回れば、受付や警備員に止められる。敷地の裏手には、取引業者が使う小さな通用門があった。

 門の前に警備員が立っている。

 美琴の姿を見つけ、戸惑ったように帽子へ手をかけた。

「奥様、どうされました」

「急ぎの用事があります。車は置いていきます」

「しかし、先ほど専務から――」

 警備員の胸元にある無線機が鳴った。

『榊原美琴様をお引き留めしてください。重要書類を持ち出している可能性があります』

 美琴は警備員の表情が変わるより先に門を抜けた。

「奥様!」

 腕を掴もうとした手が、肩のすぐ後ろを掠める。

 美琴は歩道へ飛び出した。

 車の警笛が鋭く鳴る。配送用の小型車が急停車し、運転手が窓を開けて怒鳴った。

 美琴は頭を下げる余裕もなく、反対側の歩道へ渡った。

 背後では警備員が誰かへ連絡している。

 雨が降り始めた。

 最初は細い霧のようだったものが、数分もしないうちに黒髪と肩を濡らしていく。

 美琴は駅へ向かった。

 会社から歩けば十五分ほどの距離だった。これまで何度も通った道なのに、今日だけは知らない街のように見える。

 携帯電話を取り出す。

 画面には征士郎からの着信が並んでいた。

 一件。

 二件。

 続けて華帆。

 喜和子。

 美琴はすべて無視した。

 再び電話が震える。

 画面へ表示された征士郎の名を見つめたまま、美琴は歩き続けた。

 留守番電話へ切り替わった直後、短い通知音がした。

 征士郎からの文面だった。

 ――資料を持って、すぐに会社へ戻りなさい。

 妻へ送る言葉ではなかった。

 命令だった。

 続けて、もう一通。

 ――今の君は正常な判断ができていない。これ以上、周囲へ迷惑をかけるな。

 正常ではない。

 その言葉を、征士郎はすでに用意していた。

 病院でも。

 会社でも。

 美琴が何を訴えても、混乱した妻の妄言として処理するつもりなのだ。

 美琴は携帯電話の電源を切った。

 駅へ着く頃には、髪から水が滴っていた。

 構内には昼前の人波が流れている。傘を閉じる者、改札へ急ぐ者、待ち合わせの相手を探す者。

 誰も美琴を見ていない。

 その無関心が、今はありがたかった。

 駅の東口に、小さな貸金庫会社がある。

 父が亡くなった後、美琴がわずかに残った私物を預けた場所だった。征士郎には、自宅の金庫へ入れればよいと言われたが、父の形見だけは手元から離したくなかった。

 貸金庫に入れてあるのは、美琴個人の通帳。

 実印。

 父が愛用していた銀色の懐中時計。

 そして、冬真から最後にもらった封筒だった。

 中には、二人で撮った古い写真と、使わなかった列車の切符が入っている。

 美琴は受付で会員証を差し出した。

「貸金庫を開けたいのですが」

 受付の女性は会員証を端末へ通し、画面を見た。

 眉がわずかに寄る。

「榊原美琴様でお間違いありませんか」

「はい」

「少々お待ちください」

 女性は奥へ入り、年配の責任者を連れて戻ってきた。

 責任者は美琴の濡れた姿と、胸へ抱いた書類を交互に見た。

「榊原様。こちらの貸金庫は、昨日付で解約されています」

 美琴は言葉を失った。

「解約?」

「はい。中のお品も、すべてお引き取りになっています」

「私は来ていません」

「ですが、ご本人様の委任を受けた代理人がお越しになりました」

「誰ですか」

「守秘義務がございますので、詳しくは……」

「夫ですか」

 責任者の沈黙が答えだった。

 美琴は受付台へ手をついた。

「私は、夫へ解約を頼んでいません」

「委任状と実印、本人確認書類が提示されています。書類上の不備はございませんでした」

 実印は貸金庫の中に入れてあった。

 その実印を使うために、征士郎はどうやって最初の扉を開けたのか。

「委任状を見せてください」

「開示には所定の手続きが必要です」

「貸金庫に入っていた物は、どこへ渡されたのですか」

「代理人がお持ち帰りになりました」

「いつですか」

「昨日の午後です」

 誕生日の前からではない。

 美琴が署名を拒んだ直後だ。

 征士郎はあの夜、寝室へ来る前に、すでに美琴の逃げ道を塞ぎ始めていた。

 美琴は貸金庫会社を出た。

 雨はさらに強くなっている。

 軒下へ立ち、震える指で携帯電話の電源を入れた。銀行の相談窓口へ電話をかけようとする。

 画面上部に、圏外とは異なる表示が現れた。

 通信サービスを利用できません。

 再起動しても変わらない。

 駅構内の公衆電話へ向かい、自分の携帯電話会社へ連絡した。

 契約番号を確認するための書類はない。住所、生年月日、電話番号を伝え、何度も保留を待った。

『榊原様の回線は、本日午前九時二十七分に利用停止となっております』

「どうしてですか」

『ご家族様名義の一括契約となっており、契約者様から停止の申請がございました』

「契約者は夫です」

『はい』

「私は成人です。私が使っている電話を、本人の同意なく止められるのですか」

『回線の契約名義がご主人様であるため、手続き上は可能となります』

 美琴は受話器を握り締めた。

 征士郎が与えた携帯電話。

 毎月の料金を会社経費で支払うからと、家族契約へまとめられた。

 便利だから。

 夫婦なのだから、別々にする必要はないから。

 あらゆるものが、征士郎の名義だった。

 美琴は受話器を置き、駅前の銀行へ向かった。

 口座に残っている金を引き出さなければならない。

 貸金庫の通帳は失われたが、本人確認ができれば窓口で手続きできるかもしれない。

 銀行の中は冷房が強く、濡れた服が肌へ貼りついた。

 番号札を取り、長椅子へ座る。

 胸へ抱いた資料が湿気を吸い、端から波打ち始めている。美琴は自分の身体より、書類を濡らさないよう腕へ力を込めた。

 番号を呼ばれ、窓口へ進む。

「通帳と印鑑を紛失しました。口座の確認と、可能なら現金の引き出しをお願いします」

 身分証を差し出す。

 担当者が端末へ入力し、画面を見つめた。

「榊原様。こちらの普通預金口座は、昨日解約されています」

 また昨日だった。

「残高は?」

「解約時に、指定口座へ全額振り込まれております」

「どこへですか」

 担当者は画面を確認した。

「榊原メディカルサポート株式会社です」

 榊原医療開発の関連会社。

 美琴が名前だけは知っている会社だった。実態の乏しい管理会社で、征士郎が病院関連の取引を処理する際に使っている。

「いくら移されましたか」

 金額を告げられ、美琴は瞬きを忘れた。

 二十二年間、少しずつ残してきた金だった。

 父から相続したわずかな現金。

 結婚前の預金。

 征士郎から生活費として渡され、使わずに残した端数。

 自分の老後に必要になるかもしれないと、誰にも言わず積み立てた金。

「私が解約したことになっているのですか」

「委任状による代理手続きです」

「夫ですね」

 銀行員は答えなかった。

「委任状の写しをください」

「確認と開示請求のお手続きが必要です。場合によっては、弁護士または警察へご相談いただくことになります」

 警察。

 その言葉だけが、美琴に残された道のように思えた。

 銀行を出る時、財布の中身を確かめた。

 紙幣が三枚と、小銭。

 昨日、花と食材を買った残りだった。

 自分の名義の口座に金があっても、今の美琴には一円も動かせない。

 駅前の交番へ入った。

 若い警察官が、美琴の濡れた姿を見て椅子を勧めた。

「どうされましたか」

 美琴は何から話せばよいのか迷った。

 臓器提供を迫られたこと。

 本人の知らない病院記録があること。

 夫が妹と関係を持ち、子どもまでできていたこと。

 口座も貸金庫も携帯電話も奪われたこと。

 地下倉庫から持ち出した資料を卓上へ置き、一つずつ説明した。

 警察官の表情は次第に慎重なものへ変わっていった。

「ご主人が、奥様の実印をお持ちだった可能性は?」

「貸金庫に入れていました。その貸金庫も、夫が委任状を使って解約しています」

「委任状の署名が偽造されたということですか」

「私は書いていません」

「口座の解約も?」

「頼んでいません」

 警察官は隣の席にいた年配の警察官と目を合わせた。

「ご主人へ確認を取らせていただいてもよろしいですか」

 美琴の身体が強張った。

「今、連絡するのですか」

「事実関係を確認する必要があります」

「私がここにいることを、伝えないでください」

「ですが、ご家族間の問題ですので――」

「夫に、殺されるかもしれません」

 口にした瞬間、美琴自身がその言葉に震えた。

 まだ崖へ連れていかれたわけでも、暴力を受けたわけでもない。

 けれど昨夜、征士郎は言った。

 拒める状態にしておかなければいい。

 警察官の目つきが変わった。

「具体的な危害を加える発言がありましたか」

「睡眠薬を増やされました。飲んで眠ったと思ったあと、妹の部屋で、私が拒み続けた場合について話していました」

「録音はありますか」

「ありません」

「薬は?」

 美琴は保存袋へ入れた一錠を取り出した。

 警察官は袋越しに確認した。

「処方された薬である可能性もあります。これだけでは、危害を加える目的だったとは――」

 奥から別の警察官が出てきた。

 手には電話の受話器を持っている。

「榊原美琴さんですね」

「はい」

「ご主人から、今朝、相談が入っています」

 美琴の背中を冷たいものが走った。

「相談?」

「奥様が精神的に不安定になり、自宅からいなくなったと。会社の機密書類を持ち出し、行方が分からなくなっているそうです」

「行方不明ではありません。私は自分の意思で――」

「昨夜、ご家族との間で口論があり、妹さんへ手を上げたとも聞いています」

 美琴は言葉を失った。

 華帆の頬を打った。

 それは事実だった。

 征士郎は、その一つだけを先に警察へ渡していた。

「夫は、私に臓器提供を強要しています」

「その件についても伺っています。妹さんの移植を巡り、ご家族間で意見が対立したと」

「意見の対立ではありません。私の検体を勝手に使い、病院では私が説明を受けたことにされています」

「病院へは確認されましたか」

「電話で確認しました」

「記録はありますか」

「通話は録音していません」

 警察官の視線が、胸元の資料へ移る。

「その書類は会社のものですね」

「私に関する調査書と医療資料です」

「会社から許可を得て持ち出しましたか」

「私の身体を調べた証拠です」

「内容を確認する必要はありますが、ご主人は会社の機密情報だとおっしゃっています」

 美琴は椅子の背へ手をついた。

 警察へ来れば助けてもらえると思っていた。

 けれど征士郎は、ここへも先に到着していた。

 誠実な経営者。

 二十二年間、年下の妻を支えた夫。

 病気の妹を救おうとする家族。

 その征士郎が、精神的に不安定な妻が書類を持って逃げたと言えば、美琴の言葉は最初から疑いの中へ置かれる。

「ご主人に迎えに来てもらうことはできますか」

「嫌です」

「一度、ご家族と落ち着いて話し合われた方が――」

「戻れば、薬を飲まされます」

「奥様」

「手術へ同意したことにされるかもしれない」

 声が大きくなった。

 若い警察官が困ったように眉を寄せる。

 美琴は自分の呼吸が乱れていることに気づいた。

 これでは、本当に取り乱しているように見える。

 唇を噛み、声を抑えた。

「ここを出ます」

「お待ちください。ご主人へ連絡を――」

「私は犯罪を犯しましたか」

「現時点では、事情を確認している段階です」

「では、帰ります」

 美琴は資料を抱え、交番を出た。

 背後で呼び止める声がしたが、足を止めなかった。

 雨の街を歩く。

 行く場所は一つしか思いつかなかった。

 父の墓がある寺。

 桐生家の菩提寺は、市街地から離れた山の中腹にある。電車と路線バスを乗り継ぎ、さらに坂道を歩かなければならない。

 財布の金を数え、最も安い経路を選んだ。

 電車の中では、資料を鞄代わりの紙袋へ入れ、胸へ抱いた。

 濡れた美琴を、向かいの席の人々が時折見た。

 窓へ映る姿は、確かにどこか普通ではなかった。

 髪は乱れ、服は雨で皺になり、化粧はほとんど落ちている。

 けれど目だけは、昨日までの自分とは違っていた。

 もう、何も知らなかった妻へは戻れない。

 終点近くの駅で降り、路線バスへ乗る。

 山へ近づくにつれ、建物が少なくなった。雨に煙る杉林が車窓を埋め、低い雲が峰を覆っている。

 寺へ着いた頃には、午後四時を過ぎていた。

 山門の石段は雨に濡れ、苔が深い緑色を帯びている。美琴は滑らないよう手すりを掴み、一段ずつ上った。

 境内には線香の匂いが漂っていた。

 鐘楼の下から住職が現れ、美琴を見て目を見開いた。

「美琴さんではありませんか」

「ご無沙汰しております」

 頭を下げると、髪から水滴が落ちた。

「ひどく濡れている。まず中へ入りなさい」

 庫裏へ通され、乾いた手拭いと温かい茶を渡された。

 湯呑を持つ指が震え、縁が歯へ触れた。

 住職は問い詰めなかった。

 父の葬儀を執り行った頃から変わらない、静かな目で美琴を見ている。

「父のことで、お尋ねしたいことがあります」

「宗一郎さんの?」

「父は、生前、私に何か残していませんでしたか。手紙や、書類のようなものを」

 住職の眉がゆっくり寄った。

「手紙なら、ありました」

 美琴は湯呑を置いた。

「本当ですか」

「宗一郎さんが亡くなる少し前に、私へ預けたものです。美琴さんが必要とする時に渡してほしいと」

 胸の奥に、久しく感じたことのない光が差した。

「その手紙は、今どこに?」

 住職はすぐには答えなかった。

 その沈黙で、美琴は光が消えていくのを感じた。

「数年前、ご主人が受け取りに来られました」

「征士郎さんが?」

「美琴さんの代理だとおっしゃっていました。あなたは体調を崩しており、父親の手紙を読むことに耐えられない。自分が責任をもって保管すると」

「私は、頼んでいません」

 住職の表情が曇った。

「委任状もお持ちでした。夫婦のことゆえ、私も深く疑わず……」

「いつですか」

「五年ほど前だったと思います」

 五年前。

 冬真が爆発事故で死亡したと報じられた年。

 美琴が何日も眠れず、征士郎から初めて睡眠薬を渡された頃だった。

「手紙には、何が書いてあるかご存じですか」

「中身は見ておりません。ただ、宗一郎さんは最後にこう言いました」

 住職は記憶を辿るように目を伏せた。

「四十歳になれば、美琴には自分で選べるものが戻る。その時まで、誰にも渡してはならない、と」

 四十歳。

 昨日、美琴が迎えた年齢。

 身辺調査書に記されていた信託。

 父は何かを残していた。

 征士郎はそれを知り、先に手紙を奪った。

 美琴は椅子から立ち上がった。

「父の墓へ行ってもよいですか」

「もちろんです。しかし、もう暗くなります。雨も強い」

「少しだけで構いません」

 傘を借り、墓地へ向かった。

 杉木立の奥にある桐生家の墓は、雨に濡れて黒く光っていた。

 美琴は墓前へ膝をついた。

 手を合わせても、言葉が出なかった。

 守れなくてごめんなさい。

 会社も。

 父が残したものも。

 自分自身も。

 二十二年間、何一つ守れていなかった。

「お父さん」

 口にした途端、涙が溢れた。

「私、何も知らなかった」

 雨が頬を流れ、涙と混じる。

 墓石は答えない。

 それでも美琴は、しばらくその場を離れられなかった。

 庫裏へ戻ろうとした時、山門の外に黒い車が停まっているのが見えた。

 榊原家の車だった。

 雨を透かし、前照灯が白く光っている。

 運転席から男が降りた。

 征士郎の専属運転手。

 後部座席の扉が開く。

 濃紺の傘が現れた。

 征士郎だった。

 警察から連絡を受けたのだろう。

 あるいは、携帯電話が止められる前から位置を追われていたのかもしれない。

 美琴は墓地の奥へ走った。

「美琴!」

 征士郎の声が山中へ響く。

 振り返らない。

 墓地の裏手には、林道へ抜ける細い山道がある。子どもの頃、父と歩いた道だった。

 雨でぬかるんだ斜面へ足を踏み入れる。

 枝が髪や頬へ当たる。

 紙袋を胸へ抱き、片手で木の幹を掴みながら下っていく。

「待ちなさい! 話をしよう!」

 征士郎の声が近づく。

 話し合い。

 彼がその言葉を使う時、美琴に選択肢があったことは一度もなかった。

 足元が滑った。

 身体が傾き、膝を土へつく。右足の靴が泥へ深く沈んだ。

 抜こうとしたが、踵が動かない。

 背後で枝を踏む音がした。

 美琴は靴を脱ぎ捨てた。

 片足だけで立ち上がり、再び走る。

 小石が薄い靴下を破り、足裏へ刺さる。痛みを感じるたび、まだ身体が自分のものだと分かった。

 林道へ出る。

 雨で視界は白く、道の先がほとんど見えない。

 遠くからエンジン音が近づいてきた。

 白い配送車だった。

 美琴は道の中央へ出て、両手を広げた。

 警笛とともに車が急停車する。

 運転席の男性が窓を下ろした。

「危ないだろう! 何してるんだ!」

「助けてください」

 美琴は車の側面へ手をついた。

「追われています。少しだけ、乗せてください」

 男性は美琴の裸足と、泥に汚れた服を見た。

 林道の奥から、征士郎の声が聞こえる。

「美琴!」

 運転手の表情が変わった。

「警察を呼ぶか」

「電話を貸してください」

 助手席の扉が開いた。

 美琴は乗り込み、濡れた資料を膝へ抱えた。車内には段ボールと珈琲の匂いがした。

「どこへ行けばいい」

「どこでも……この道を下ってください」

 配送車が動き出す。

 美琴は運転手から携帯電話を借りた。

「警察じゃないのか」

「連絡しなければならない人がいます」

 番号は覚えていた。

 二十二年間、一度も消すことのできなかった十一桁。

 冬真と別れる前、何かあったら必ずかけろと渡された番号。

 結婚した夜も。

 父が亡くなった日も。

 冬真の死亡を知らせる記事を見た時も。

 美琴はかけなかった。

 今さらつながるはずがない。

 持ち主は五年前に死んでいる。

 それでも、ほかに頼れる人の名を思い出せなかった。

 震える指で番号を押す。

 発信。

 耳へ当てる。

 呼び出し音が鳴った。

 一度。

 古い番号は、まだ生きていた。

 二度。

 美琴の胸が激しく打つ。

 三度。

 前方の交差路から、黒い車が飛び出した。

 配送車の運転手が急ブレーキを踏む。

 身体が前へ投げ出され、美琴は資料と電話を胸へ抱き込んだ。

 黒い車が道を塞いでいる。

 後部座席の扉が開き、征士郎が降りてきた。

 携帯電話の向こうで、呼び出し音が途切れた。

 誰かが出ようとした、その瞬間だった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第41話 株主総会への招待状

    榊原医療開発の定時株主総会まで、残り十二日だった。例年なら、美琴はこの時期になると征士郎が自宅へ持ち帰る総会資料の数字を見直し、前年との増減を確認し、取引先から届く祝い花の扱いまで気にかけていた。それでも会議場に自分の席が用意されたことは一度もなく、当日は控室と廊下を往復しながら、必要な資料を役員へ渡すだけだった。今年、美琴の前に置かれているのは、配布用資料ではなく榊原医療開発の最新の株主名簿だった。久世の事務所の長机に広げられた名簿を追っていた美琴は、途中で指を止めた。そこには見慣れたはずなのに、いまだ自分の会社だという実感を持てない名前があった。〈ミコト・アセットマネジメント株式会社〉。保有比率は経営権を左右するほどではないが、株主として総会へ出席し、保有株式に応じて議決権を行使できるだけの株数が記載されていた。「いつ取得した株ですか」久世は取得履歴を開き、設立直後の三年前から複数回に分けて買い増していると説明した。市場を経由した取得だけではなく、榊原家と関係の深い株主から譲渡された分もあり、資金の一部には美琴名義の旧口座から移された金が使われた疑いがある。会社の存在を知らなかった頃、美琴の名前で作られた法人は夫の会社の株まで保有し、書類上の美琴は知らないうちに株主へなっていた。「しかも、株主名簿上の名義人は法人です。登記上、その法人を代表できる人物は現在も美琴さんになっています」久世の言葉に、美琴は名簿の社名と自分の名前を交互に見た。ミコト・アセットでは、融資も保証も投資も自分が決めたことにされてきた。その肩書を欲しいと思ったことは一度もないが、征士郎が自分の名義を利用するために作った代表権なら、その権利だけを都合よく封じられることにも納得できなかった。すでに征士郎側からは、株主総会への出席を認めないという趣旨の通知が届いていた。ミコト・アセットの代表取締役登記には重大な争いがあり、会社経営へ実際に関与してこなかった美琴が突然株主権を行使すれば混乱を招くため、総会当日に受付へ現れても資格を認めない可能性があると書かれている。法廷では美琴を関連会社の実質的経営者として扱い、債務まで負わせようとしていた征士郎側が、株主として権利を使おうとした瞬間には「経営へ関与していない」と主張している。その文章を最後まで読んだ美琴は、怒りよりも先に、また同じやり方

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第40話 二十二年分の給料

    美琴が最初に作ったのは、報酬額の表ではなかった。久世の事務所の長机いっぱいに、自分が実際にしてきた仕事を年代順へ並べることから始めた。資金繰り、銀行との返済調整、取引先への支払い交渉、社員給与の計算補助、役員会資料の作成、取引先の冠婚葬祭への出席。これまで「妻だからして当然」と思ってきたことを一つずつ仕事として書き出すたび、二十二年間の輪郭が別の形で見えてきた。「家事と会社業務は分けましょう」久世は、美琴が書いた一覧の中央へ線を引いた。榊原家の食事を作ることや喜和子の通院へ付き添ったことまで会社への請求へ含めるつもりはない。だが、取引先の葬儀へ征士郎の代理として参列し、会社名義の香典額を判断したことや、銀行担当者との面談資料を作成したことは、家庭内の手伝いではないと彼は明確に区別した。美琴は古い手帳を開き、予定欄を一つずつ確認した。月末の欄には決まって銀行名と数字が書き込まれている。午前十時、中央銀行支店。午後二時、東都医療機器。午後四時、社員給与確認。夜には榊原邸へ戻り、喜和子の夕食を作ったあと、征士郎が持ち帰った資料を見ながら翌月の支払い順位を決めていた。あの頃の自分には、どこからどこまでが仕事なのか考える余裕すらなかった。「メールも残っています」美琴が出した古い外付け記録媒体には、会社の共有アドレスから転送された連絡が大量に残っていた。征士郎の秘書から送られてきた請求一覧、経理担当者からの確認依頼、取引先から直接届いた支払い相談。宛名には〈榊原専務奥様〉と書かれているものも多いが、内容は明らかに会社の資金判断を求めるものだった。久世はその一通を開き、画面へ表示した。十四年前、資金不足が深刻だった月のメールだった。経理課長が、社員給与と医療機器会社への支払いのどちらを優先すべきか美琴へ尋ねている。美琴は給与を予定通り支給し、医療機器会社へ自分から三日の延期を頼むと返信していた。その三日後、取引先から〈奥様のお約束どおり入金を確認しました〉という返事が届いている。「専務ではなく、私へ聞いている」「このメールだけではありません」久世が検索条件を変えると、似た連絡が何十件も出た。融資の返済日を一週間動かせないか、仕入先の一社へ先に払うべきか、給与計算に不足がないか。正式な役職も社内メールアドレスもない美琴へ、会社の人間が直接判断を求めている。しかも

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第39話 離婚できない妻

    離婚訴訟の期日は、これまでより傍聴人の数が多かった。美琴が成年後見を必要としないと判断されて以降、榊原家と九条家の対立は金融機関や取引先にも知られるようになり、法廷の後方には報道関係者らしい姿も混じっている。美琴は久世の隣へ座り、机の上に置かれた書面を一枚ずつ確かめた。三十八件の保証契約、ミコト・アセットの議事録、銀行の入退館記録、筆跡鑑定書。向かい側には征士郎がいた。濃紺のスーツに白いシャツを合わせ、表情には焦りを見せていない。裁判所の外では妻を心配する夫として振る舞い、法廷では会社を守る経営者として座る。その切り替えを二十二年間見てきた美琴には、口元のわずかな硬さだけが、今日の主張に相当な準備をしてきたことを教えていた。征士郎側の代理人は、開廷後まもなく提出書面の説明へ入った。美琴は榊原家から一方的に財産を奪われた者ではなく、長年にわたり榊原医療開発と関連会社の資金調達へ関与し、個人保証、関連会社の代表、病院法人への投資判断を通じて事業拡大へ参加してきたという。ミコト・アセットでは代表取締役として貸付や不動産取得を承認し、複数の金融機関はその経営関与を前提に融資を実行した。したがって、婚姻期間中に形成された利益だけを美琴が受け取り、事業債務だけを征士郎側へ残すことは許されないという論理だった。「相手方は、自身に都合のよい資産のみを固有財産であると主張し、事業上の債務についてはすべて偽造であるとして負担を免れようとしています」代理人の声は整っていた。美琴は黙って聞いた。次に示されたのは桐生承継信託第一号だった。征士郎側は、その受益権についても、美琴が長年榊原家の事業へ自ら信用を供与してきた以上、債務整理と切り離して扱うべきではないと主張した。さらに、美琴が離婚後に桐生姓へ戻る意向を周囲へ示していることまで、債務との関係を断ち切ろうとする姿勢の表れであるかのように語った。美琴はそこで初めて征士郎を見た。二十二年間、会社の契約や役員会について質問すれば「君は家庭を見ていればいい」と言い、帳簿の数字へ意見を出せば「正式な役員ではない」と退けた男だった。その同じ人間が、今は美琴を事業の拡大へ積極的に関わった共同経営者として扱っている。久世は反論のために立ち上がった。まず、ミコト・アセットで美琴が出席したとされる株主総会と取締役会について、会議室そのものが存在

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第38話 夫が作ったもう一人の妻

    久世が机の上へ並べた資料は、契約の種類ごとではなく、「榊原美琴」という名前がどのように使われたかで分けられていた。銀行関係、保証契約、ミコト・アセット、医療記録、保険、委任状。昨日まで別々の問題として追っていた書類が、六つの束へ組み替えられている。美琴は椅子へ座る前にそれらを眺め、どの束にも自分の署名と実印の痕跡があることを確かめた。自分の人生が紙へ解体され、用途ごとに分類されているようだった。「今まで、偽造された書類を一件ずつ追ってきました」久世は壁面モニターへ資料を映した。最初に示されたのは、美琴の実際の経歴だった。十八歳で征士郎と結婚し、榊原家へ入り、正式な役職も給与もないまま経理、資金繰り、取引先との調整を担ったこと。家では喜和子の世話をし、会社では表に名前が出ない仕事を引き受け、必要な時だけ「専務夫人」として頭を下げてきたことが年代順に記されている。「こちらが、現実のあなたです」美琴は画面を見つめた。そこにある事実はどれも知っている。それでも、第三者の手で簡潔に並べられると、二十二年間の自分が驚くほど権限を持たない人間だったことが分かった。会社の資金が尽きそうな時には数字を計算したのに、融資を決める権限はない。取引先へ支払い延期を頼んだのに、役員会へ正式に呼ばれることはない。毎月の帳簿を把握していても、報酬は一度も支払われなかった。久世は画面を切り替えた。今度は、まるで別人の履歴だった。巨額の個人保証を繰り返し、金融機関から信用を得る資産家。関連会社の代表取締役として病院法人への投資や不動産取得を決裁し、榊原医療開発への融資を承認する経営者。生命保険へ自ら加入し、受取人と保険金額を調整する資産管理者。さらに夫へ口座、株式、議決権、財産管理を任せる委任状へ署名し続けた妻として記録されている。「そして、直近になると別の要素が加わります」久世が一枚の医療関係資料を拡大した。そこには、強い不安、判断の揺らぎ、配偶者による補助が必要という趣旨の記述が並んでいた。美琴が会ったことのない医師との面談記録や、薬の影響が疑われる時期の書類も含まれている。成年後見を求めた征士郎側の主張と重ねれば、書類上の美琴は最近になって急速に、精神疾患を抱え、自分では重要な判断をできない患者へ変化していた。「矛盾していませんか」美琴は画面を見たまま尋ねた。「何十億円も

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第37話 存在しない取締役会

    ミコト・アセットマネジメントの議事録は、見た目だけなら申し分のない会社の記録だった。製本された冊子には年度ごとの株主総会と取締役会が整然と並び、開催日時、出席者、審議事項、決議内容まで欠けることなく記されている。美琴は久世の事務所の長机に座り、その一冊目を開いたまま、しばらく最初のページから視線を動かせなかった。代表取締役として記載されているのは自分の名前だった。議長として開会を宣言し、貸付案件を説明し、出席者へ意見を求め、最後にはすべての議案を承認したことになっている。「これ、全部で何回あるんですか」久世は手元の一覧へ目を落とした。「確認できた範囲で、株主総会が九回、取締役会が三十七回です。書面決議扱いのものを含めれば、さらに増えます」と答えた。美琴は思わずページの角を押さえる指へ力を込めた。三年前に設立された会社であるにもかかわらず、月によっては二度も取締役会が開かれている。自分は会社の存在さえ知らなかったのに、紙の上の榊原美琴は、現実の美琴よりはるかに頻繁に経営判断をしていた。議事録の内容は軽いものではなかった。榊原医療開発への一億円単位の貸付、病院法人への出資、医療機器会社の債務保証、地方都市の土地購入、関連会社株式の取得。中には、前日に資金不足が判明した榊原医療開発へ緊急融資を行う議案もあり、議事録上では美琴自身が「取引関係維持のため必要」と説明したことになっている。別の会議では、病院法人への投資について「将来の医療事業拡大に資する」と発言したと記録されていた。美琴はその文章を読み、奇妙な息苦しさを覚えた。自分なら使いそうな言い回しではない。けれど外部の人間には、そんなことは分からない。そこに署名と実印があり、議事録として整えられていれば、代表取締役本人が話した言葉として扱われる。「この議事録は、会社の中に置かれていただけではないんですね」「ええ」久世は別のファイルを開いた。銀行、リース会社、病院法人から取り寄せた審査資料の中に、ミコト・アセットの議事録写しが添付されている。融資審査では、美琴が取締役会を主導し、自ら投資案件を説明した人物として扱われていた。金融機関側のメモには〈代表者の事業理解は深い〉〈榊原医療開発との関係も本人が説明〉という記載まである。「会ってもいないのに、私の事業理解が深いことになっているんですか」「担当者が美琴

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第36話 妹が書いた私の名前

    筆跡鑑定人が持参した資料は、前に見たものより薄かった。それなのに、美琴は表紙へ触れるまでに少し時間がかかった。九条家の応接室には午前の光が斜めに差し込み、長机の上には華帆が過去三年間に残した手書き資料の複写が並んでいる。白い花の誕生日カード、買い物を頼まれた時の走り書き、病院へ提出した申請書、美琴宛ての短い手紙。どれも当時は疑う理由すらなかった物ばかりで、今は一文字ずつ線の癖を見られるために透明な袋へ収められていた。「結論から申し上げれば、同一筆者と断定する段階ではありません」鑑定人は最初にそう告げた。美琴は胸の奥で固くなっていたものが僅かに緩むのを感じたが、安心したわけではなかった。鑑定人はすぐに、直近三年間の移植関係書類にある偽造署名と華帆の自然筆跡には、複数の共通特徴が見つかったと続けた。文字の形そのものではなく、筆圧の入れ方、曲線から払いへ移る時の小さな止まり、縦線を書き始める際に紙へ強くペン先を置く癖が似ているという。透明なシートを重ねると、全く違う言葉の中にも同じ動きが浮かび上がった。華帆が書いた〈お姉ちゃんへ〉の「姉」の縦線と、移植同意書にある〈榊原美琴〉の「琴」の縦画には、始点だけ強く紙を押し、その直後に力を抜く癖がある。さらに、長い横線の終わりを僅かに上向きへ返す動きも共通していた。鑑定人はあくまで可能性の話として説明し、類似だけで本人と決めつけることはできないと何度も念を押した。「比較資料を増やせば、もう少し精度は上がりますか」美琴が尋ねると、鑑定人は頷いた。「年代の分かるものが多いほど助かります。特に、急いで書いたものと丁寧に書いたものの両方があるといいでしょう」と答える。その声は淡々としていたが、美琴にはありがたかった。ここで華帆が書いたと断定されれば、怒りの向け先は簡単になる。けれど簡単な答えほど、今の美琴は警戒するようになっていた。久世が病院関係の申請書を一枚取り上げた。「華帆さん本人が提出した入院費助成の申請です。日付も本人提出も確認できています」と言い、別の買い物メモと並べた。美琴はその二枚を見ながら、華帆が榊原邸へ来た最初の頃を思い出した。文字を書く姿を何度も見ていたはずなのに、どんな持ち方をしていたかまでは覚えていない。姉を慕うように隣へ座り、「お姉ちゃんの字って綺麗」と家計簿を覗き込んでいたことだけが、妙にはっきり

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status