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第6話 逃げた妻

Penulis: なつめ
last update Tanggal publikasi: 2026-07-28 11:33:24

 階段を下りてくる足音は、途中で一度止まった。

 第二保管室の扉は半分開いている。蛍光灯の白い光が、廊下の床へ細長くこぼれていた。

 美琴は二十二年前の身辺調査書と、三年前の医療資料を胸へ抱き寄せた。

 紙の角が腕へ食い込む。

 足音が再び動き出した。

 一段。

 また一段。

 革靴の硬い音だった。

 地下倉庫を日常的に使う社員なら、ここまで慎重には歩かない。誰かが中の様子を窺いながら近づいている。

 美琴は周囲を見回した。

 保管室の奥に、廃棄書類を運び出すための搬入口がある。普段は外側から施錠されているが、棚卸しの時期だけ鍵が開けられていた。

 扉へ駆け寄り、金属製の取っ手を押す。

 動かない。

 胸の奥に焦りが込み上げた。

 もう一度、体重をかける。

 錆びついた蝶番が低く軋み、扉がわずかに開いた。外から湿った空気が流れ込み、埃っぽい保管室の匂いを押し返す。

 美琴は身体を滑り込ませた。

 搬入口の外は、建物の裏手にある荷捌き場だった。昨夜の雨でアスファルトは濡れ、積み上げられた空箱から湿った紙の匂いが漂っている。

 背後で、保管室の扉が開いた。

「奥様?」

 男性の声だった。

 情報管理部の者か、総務の社員か。

 美琴は振り返らなかった。

 資料を腕へ抱え、荷捌き場を走る。普段履き慣れた低い靴なのに、足が思うように動かなかった。

「奥様、お待ちください!」

 声が追ってくる。

 美琴は駐車場の脇を抜けた。

 正面玄関へ回れば、受付や警備員に止められる。敷地の裏手には、取引業者が使う小さな通用門があった。

 門の前に警備員が立っている。

 美琴の姿を見つけ、戸惑ったように帽子へ手をかけた。

「奥様、どうされました」

「急ぎの用事があります。車は置いていきます」

「しかし、先ほど専務から――」

 警備員の胸元にある無線機が鳴った。

『榊原美琴様をお引き留めしてください。重要書類を持ち出している可能性があります』

 美琴は警備員の表情が変わるより先に門を抜けた。

「奥様!」

 腕を掴もうとした手が、肩のすぐ後ろを掠める。

 美琴は歩道へ飛び出した。

 車の警笛が鋭く鳴る。配送用の小型車が急停車し、運転手が窓を開けて怒鳴った。

 美琴は頭を下げる余裕もなく、反対側の歩道へ渡った。

 背後では警備員が誰かへ連絡している。

 雨が降り始めた。

 最初は細い霧のようだったものが、数分もしないうちに黒髪と肩を濡らしていく。

 美琴は駅へ向かった。

 会社から歩けば十五分ほどの距離だった。これまで何度も通った道なのに、今日だけは知らない街のように見える。

 携帯電話を取り出す。

 画面には征士郎からの着信が並んでいた。

 一件。

 二件。

 続けて華帆。

 喜和子。

 美琴はすべて無視した。

 再び電話が震える。

 画面へ表示された征士郎の名を見つめたまま、美琴は歩き続けた。

 留守番電話へ切り替わった直後、短い通知音がした。

 征士郎からの文面だった。

 ――資料を持って、すぐに会社へ戻りなさい。

 妻へ送る言葉ではなかった。

 命令だった。

 続けて、もう一通。

 ――今の君は正常な判断ができていない。これ以上、周囲へ迷惑をかけるな。

 正常ではない。

 その言葉を、征士郎はすでに用意していた。

 病院でも。

 会社でも。

 美琴が何を訴えても、混乱した妻の妄言として処理するつもりなのだ。

 美琴は携帯電話の電源を切った。

 駅へ着く頃には、髪から水が滴っていた。

 構内には昼前の人波が流れている。傘を閉じる者、改札へ急ぐ者、待ち合わせの相手を探す者。

 誰も美琴を見ていない。

 その無関心が、今はありがたかった。

 駅の東口に、小さな貸金庫会社がある。

 父が亡くなった後、美琴がわずかに残った私物を預けた場所だった。征士郎には、自宅の金庫へ入れればよいと言われたが、父の形見だけは手元から離したくなかった。

 貸金庫に入れてあるのは、美琴個人の通帳。

 実印。

 父が愛用していた銀色の懐中時計。

 そして、冬真から最後にもらった封筒だった。

 中には、二人で撮った古い写真と、使わなかった列車の切符が入っている。

 美琴は受付で会員証を差し出した。

「貸金庫を開けたいのですが」

 受付の女性は会員証を端末へ通し、画面を見た。

 眉がわずかに寄る。

「榊原美琴様でお間違いありませんか」

「はい」

「少々お待ちください」

 女性は奥へ入り、年配の責任者を連れて戻ってきた。

 責任者は美琴の濡れた姿と、胸へ抱いた書類を交互に見た。

「榊原様。こちらの貸金庫は、昨日付で解約されています」

 美琴は言葉を失った。

「解約?」

「はい。中のお品も、すべてお引き取りになっています」

「私は来ていません」

「ですが、ご本人様の委任を受けた代理人がお越しになりました」

「誰ですか」

「守秘義務がございますので、詳しくは……」

「夫ですか」

 責任者の沈黙が答えだった。

 美琴は受付台へ手をついた。

「私は、夫へ解約を頼んでいません」

「委任状と実印、本人確認書類が提示されています。書類上の不備はございませんでした」

 実印は貸金庫の中に入れてあった。

 その実印を使うために、征士郎はどうやって最初の扉を開けたのか。

「委任状を見せてください」

「開示には所定の手続きが必要です」

「貸金庫に入っていた物は、どこへ渡されたのですか」

「代理人がお持ち帰りになりました」

「いつですか」

「昨日の午後です」

 誕生日の前からではない。

 美琴が署名を拒んだ直後だ。

 征士郎はあの夜、寝室へ来る前に、すでに美琴の逃げ道を塞ぎ始めていた。

 美琴は貸金庫会社を出た。

 雨はさらに強くなっている。

 軒下へ立ち、震える指で携帯電話の電源を入れた。銀行の相談窓口へ電話をかけようとする。

 画面上部に、圏外とは異なる表示が現れた。

 通信サービスを利用できません。

 再起動しても変わらない。

 駅構内の公衆電話へ向かい、自分の携帯電話会社へ連絡した。

 契約番号を確認するための書類はない。住所、生年月日、電話番号を伝え、何度も保留を待った。

『榊原様の回線は、本日午前九時二十七分に利用停止となっております』

「どうしてですか」

『ご家族様名義の一括契約となっており、契約者様から停止の申請がございました』

「契約者は夫です」

『はい』

「私は成人です。私が使っている電話を、本人の同意なく止められるのですか」

『回線の契約名義がご主人様であるため、手続き上は可能となります』

 美琴は受話器を握り締めた。

 征士郎が与えた携帯電話。

 毎月の料金を会社経費で支払うからと、家族契約へまとめられた。

 便利だから。

 夫婦なのだから、別々にする必要はないから。

 あらゆるものが、征士郎の名義だった。

 美琴は受話器を置き、駅前の銀行へ向かった。

 口座に残っている金を引き出さなければならない。

 貸金庫の通帳は失われたが、本人確認ができれば窓口で手続きできるかもしれない。

 銀行の中は冷房が強く、濡れた服が肌へ貼りついた。

 番号札を取り、長椅子へ座る。

 胸へ抱いた資料が湿気を吸い、端から波打ち始めている。美琴は自分の身体より、書類を濡らさないよう腕へ力を込めた。

 番号を呼ばれ、窓口へ進む。

「通帳と印鑑を紛失しました。口座の確認と、可能なら現金の引き出しをお願いします」

 身分証を差し出す。

 担当者が端末へ入力し、画面を見つめた。

「榊原様。こちらの普通預金口座は、昨日解約されています」

 また昨日だった。

「残高は?」

「解約時に、指定口座へ全額振り込まれております」

「どこへですか」

 担当者は画面を確認した。

「榊原メディカルサポート株式会社です」

 榊原医療開発の関連会社。

 美琴が名前だけは知っている会社だった。実態の乏しい管理会社で、征士郎が病院関連の取引を処理する際に使っている。

「いくら移されましたか」

 金額を告げられ、美琴は瞬きを忘れた。

 二十二年間、少しずつ残してきた金だった。

 父から相続したわずかな現金。

 結婚前の預金。

 征士郎から生活費として渡され、使わずに残した端数。

 自分の老後に必要になるかもしれないと、誰にも言わず積み立てた金。

「私が解約したことになっているのですか」

「委任状による代理手続きです」

「夫ですね」

 銀行員は答えなかった。

「委任状の写しをください」

「確認と開示請求のお手続きが必要です。場合によっては、弁護士または警察へご相談いただくことになります」

 警察。

 その言葉だけが、美琴に残された道のように思えた。

 銀行を出る時、財布の中身を確かめた。

 紙幣が三枚と、小銭。

 昨日、花と食材を買った残りだった。

 自分の名義の口座に金があっても、今の美琴には一円も動かせない。

 駅前の交番へ入った。

 若い警察官が、美琴の濡れた姿を見て椅子を勧めた。

「どうされましたか」

 美琴は何から話せばよいのか迷った。

 臓器提供を迫られたこと。

 本人の知らない病院記録があること。

 夫が妹と関係を持ち、子どもまでできていたこと。

 口座も貸金庫も携帯電話も奪われたこと。

 地下倉庫から持ち出した資料を卓上へ置き、一つずつ説明した。

 警察官の表情は次第に慎重なものへ変わっていった。

「ご主人が、奥様の実印をお持ちだった可能性は?」

「貸金庫に入れていました。その貸金庫も、夫が委任状を使って解約しています」

「委任状の署名が偽造されたということですか」

「私は書いていません」

「口座の解約も?」

「頼んでいません」

 警察官は隣の席にいた年配の警察官と目を合わせた。

「ご主人へ確認を取らせていただいてもよろしいですか」

 美琴の身体が強張った。

「今、連絡するのですか」

「事実関係を確認する必要があります」

「私がここにいることを、伝えないでください」

「ですが、ご家族間の問題ですので――」

「夫に、殺されるかもしれません」

 口にした瞬間、美琴自身がその言葉に震えた。

 まだ崖へ連れていかれたわけでも、暴力を受けたわけでもない。

 けれど昨夜、征士郎は言った。

 拒める状態にしておかなければいい。

 警察官の目つきが変わった。

「具体的な危害を加える発言がありましたか」

「睡眠薬を増やされました。飲んで眠ったと思ったあと、妹の部屋で、私が拒み続けた場合について話していました」

「録音はありますか」

「ありません」

「薬は?」

 美琴は保存袋へ入れた一錠を取り出した。

 警察官は袋越しに確認した。

「処方された薬である可能性もあります。これだけでは、危害を加える目的だったとは――」

 奥から別の警察官が出てきた。

 手には電話の受話器を持っている。

「榊原美琴さんですね」

「はい」

「ご主人から、今朝、相談が入っています」

 美琴の背中を冷たいものが走った。

「相談?」

「奥様が精神的に不安定になり、自宅からいなくなったと。会社の機密書類を持ち出し、行方が分からなくなっているそうです」

「行方不明ではありません。私は自分の意思で――」

「昨夜、ご家族との間で口論があり、妹さんへ手を上げたとも聞いています」

 美琴は言葉を失った。

 華帆の頬を打った。

 それは事実だった。

 征士郎は、その一つだけを先に警察へ渡していた。

「夫は、私に臓器提供を強要しています」

「その件についても伺っています。妹さんの移植を巡り、ご家族間で意見が対立したと」

「意見の対立ではありません。私の検体を勝手に使い、病院では私が説明を受けたことにされています」

「病院へは確認されましたか」

「電話で確認しました」

「記録はありますか」

「通話は録音していません」

 警察官の視線が、胸元の資料へ移る。

「その書類は会社のものですね」

「私に関する調査書と医療資料です」

「会社から許可を得て持ち出しましたか」

「私の身体を調べた証拠です」

「内容を確認する必要はありますが、ご主人は会社の機密情報だとおっしゃっています」

 美琴は椅子の背へ手をついた。

 警察へ来れば助けてもらえると思っていた。

 けれど征士郎は、ここへも先に到着していた。

 誠実な経営者。

 二十二年間、年下の妻を支えた夫。

 病気の妹を救おうとする家族。

 その征士郎が、精神的に不安定な妻が書類を持って逃げたと言えば、美琴の言葉は最初から疑いの中へ置かれる。

「ご主人に迎えに来てもらうことはできますか」

「嫌です」

「一度、ご家族と落ち着いて話し合われた方が――」

「戻れば、薬を飲まされます」

「奥様」

「手術へ同意したことにされるかもしれない」

 声が大きくなった。

 若い警察官が困ったように眉を寄せる。

 美琴は自分の呼吸が乱れていることに気づいた。

 これでは、本当に取り乱しているように見える。

 唇を噛み、声を抑えた。

「ここを出ます」

「お待ちください。ご主人へ連絡を――」

「私は犯罪を犯しましたか」

「現時点では、事情を確認している段階です」

「では、帰ります」

 美琴は資料を抱え、交番を出た。

 背後で呼び止める声がしたが、足を止めなかった。

 雨の街を歩く。

 行く場所は一つしか思いつかなかった。

 父の墓がある寺。

 桐生家の菩提寺は、市街地から離れた山の中腹にある。電車と路線バスを乗り継ぎ、さらに坂道を歩かなければならない。

 財布の金を数え、最も安い経路を選んだ。

 電車の中では、資料を鞄代わりの紙袋へ入れ、胸へ抱いた。

 濡れた美琴を、向かいの席の人々が時折見た。

 窓へ映る姿は、確かにどこか普通ではなかった。

 髪は乱れ、服は雨で皺になり、化粧はほとんど落ちている。

 けれど目だけは、昨日までの自分とは違っていた。

 もう、何も知らなかった妻へは戻れない。

 終点近くの駅で降り、路線バスへ乗る。

 山へ近づくにつれ、建物が少なくなった。雨に煙る杉林が車窓を埋め、低い雲が峰を覆っている。

 寺へ着いた頃には、午後四時を過ぎていた。

 山門の石段は雨に濡れ、苔が深い緑色を帯びている。美琴は滑らないよう手すりを掴み、一段ずつ上った。

 境内には線香の匂いが漂っていた。

 鐘楼の下から住職が現れ、美琴を見て目を見開いた。

「美琴さんではありませんか」

「ご無沙汰しております」

 頭を下げると、髪から水滴が落ちた。

「ひどく濡れている。まず中へ入りなさい」

 庫裏へ通され、乾いた手拭いと温かい茶を渡された。

 湯呑を持つ指が震え、縁が歯へ触れた。

 住職は問い詰めなかった。

 父の葬儀を執り行った頃から変わらない、静かな目で美琴を見ている。

「父のことで、お尋ねしたいことがあります」

「宗一郎さんの?」

「父は、生前、私に何か残していませんでしたか。手紙や、書類のようなものを」

 住職の眉がゆっくり寄った。

「手紙なら、ありました」

 美琴は湯呑を置いた。

「本当ですか」

「宗一郎さんが亡くなる少し前に、私へ預けたものです。美琴さんが必要とする時に渡してほしいと」

 胸の奥に、久しく感じたことのない光が差した。

「その手紙は、今どこに?」

 住職はすぐには答えなかった。

 その沈黙で、美琴は光が消えていくのを感じた。

「数年前、ご主人が受け取りに来られました」

「征士郎さんが?」

「美琴さんの代理だとおっしゃっていました。あなたは体調を崩しており、父親の手紙を読むことに耐えられない。自分が責任をもって保管すると」

「私は、頼んでいません」

 住職の表情が曇った。

「委任状もお持ちでした。夫婦のことゆえ、私も深く疑わず……」

「いつですか」

「五年ほど前だったと思います」

 五年前。

 冬真が爆発事故で死亡したと報じられた年。

 美琴が何日も眠れず、征士郎から初めて睡眠薬を渡された頃だった。

「手紙には、何が書いてあるかご存じですか」

「中身は見ておりません。ただ、宗一郎さんは最後にこう言いました」

 住職は記憶を辿るように目を伏せた。

「四十歳になれば、美琴には自分で選べるものが戻る。その時まで、誰にも渡してはならない、と」

 四十歳。

 昨日、美琴が迎えた年齢。

 身辺調査書に記されていた信託。

 父は何かを残していた。

 征士郎はそれを知り、先に手紙を奪った。

 美琴は椅子から立ち上がった。

「父の墓へ行ってもよいですか」

「もちろんです。しかし、もう暗くなります。雨も強い」

「少しだけで構いません」

 傘を借り、墓地へ向かった。

 杉木立の奥にある桐生家の墓は、雨に濡れて黒く光っていた。

 美琴は墓前へ膝をついた。

 手を合わせても、言葉が出なかった。

 守れなくてごめんなさい。

 会社も。

 父が残したものも。

 自分自身も。

 二十二年間、何一つ守れていなかった。

「お父さん」

 口にした途端、涙が溢れた。

「私、何も知らなかった」

 雨が頬を流れ、涙と混じる。

 墓石は答えない。

 それでも美琴は、しばらくその場を離れられなかった。

 庫裏へ戻ろうとした時、山門の外に黒い車が停まっているのが見えた。

 榊原家の車だった。

 雨を透かし、前照灯が白く光っている。

 運転席から男が降りた。

 征士郎の専属運転手。

 後部座席の扉が開く。

 濃紺の傘が現れた。

 征士郎だった。

 警察から連絡を受けたのだろう。

 あるいは、携帯電話が止められる前から位置を追われていたのかもしれない。

 美琴は墓地の奥へ走った。

「美琴!」

 征士郎の声が山中へ響く。

 振り返らない。

 墓地の裏手には、林道へ抜ける細い山道がある。子どもの頃、父と歩いた道だった。

 雨でぬかるんだ斜面へ足を踏み入れる。

 枝が髪や頬へ当たる。

 紙袋を胸へ抱き、片手で木の幹を掴みながら下っていく。

「待ちなさい! 話をしよう!」

 征士郎の声が近づく。

 話し合い。

 彼がその言葉を使う時、美琴に選択肢があったことは一度もなかった。

 足元が滑った。

 身体が傾き、膝を土へつく。右足の靴が泥へ深く沈んだ。

 抜こうとしたが、踵が動かない。

 背後で枝を踏む音がした。

 美琴は靴を脱ぎ捨てた。

 片足だけで立ち上がり、再び走る。

 小石が薄い靴下を破り、足裏へ刺さる。痛みを感じるたび、まだ身体が自分のものだと分かった。

 林道へ出る。

 雨で視界は白く、道の先がほとんど見えない。

 遠くからエンジン音が近づいてきた。

 白い配送車だった。

 美琴は道の中央へ出て、両手を広げた。

 警笛とともに車が急停車する。

 運転席の男性が窓を下ろした。

「危ないだろう! 何してるんだ!」

「助けてください」

 美琴は車の側面へ手をついた。

「追われています。少しだけ、乗せてください」

 男性は美琴の裸足と、泥に汚れた服を見た。

 林道の奥から、征士郎の声が聞こえる。

「美琴!」

 運転手の表情が変わった。

「警察を呼ぶか」

「電話を貸してください」

 助手席の扉が開いた。

 美琴は乗り込み、濡れた資料を膝へ抱えた。車内には段ボールと珈琲の匂いがした。

「どこへ行けばいい」

「どこでも……この道を下ってください」

 配送車が動き出す。

 美琴は運転手から携帯電話を借りた。

「警察じゃないのか」

「連絡しなければならない人がいます」

 番号は覚えていた。

 二十二年間、一度も消すことのできなかった十一桁。

 冬真と別れる前、何かあったら必ずかけろと渡された番号。

 結婚した夜も。

 父が亡くなった日も。

 冬真の死亡を知らせる記事を見た時も。

 美琴はかけなかった。

 今さらつながるはずがない。

 持ち主は五年前に死んでいる。

 それでも、ほかに頼れる人の名を思い出せなかった。

 震える指で番号を押す。

 発信。

 耳へ当てる。

 呼び出し音が鳴った。

 一度。

 古い番号は、まだ生きていた。

 二度。

 美琴の胸が激しく打つ。

 三度。

 前方の交差路から、黒い車が飛び出した。

 配送車の運転手が急ブレーキを踏む。

 身体が前へ投げ出され、美琴は資料と電話を胸へ抱き込んだ。

 黒い車が道を塞いでいる。

 後部座席の扉が開き、征士郎が降りてきた。

 携帯電話の向こうで、呼び出し音が途切れた。

 誰かが出ようとした、その瞬間だった。

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    九条家の一室に運び込まれた段ボール箱は、朝から一つずつ机の脇へ積み上げられていた。榊原邸の台所の床下から取り戻した手書きの帳簿は、湿気を吸って端が波打ち、古いものほど紙が黄ばんでいる。美琴は表紙に記した年を確かめながら、それらを年代順に並べていった。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から、四十歳になった現在まで、抜けている月はほとんどなかった。二十二年という時間が、思い出ではなく、紙の厚みとなって目の前に積まれている。家計簿のように見える薄い大学ノートもあれば、会社の廃棄用紙を裏返して綴じたものもある。けれど中身は、食費や光熱費を記したものではない。銀行への返済日、手形の決済日、仕入先への支払い延期、役員が会社名義で落とした私的な会食費、不自然に膨らんだコンサルタント料、表の月次資料から消えた資金移動を、美琴が自分のために書き留め続けた記録だった。正式な肩書も社員証もなかった彼女は、会議室の外で聞いた数字と、征士郎が自宅へ持ち帰った資料と、取引先からかかってきた電話をつなぎ合わせ、会社が翌月を越えられるかを毎晩計算していた。「これを、全部お一人で?」久世朔臣は、銀縁眼鏡の奥で目を細めた。机の向かい側には彼が持ち込んだノートパソコンが開かれ、画面には美琴が入力した数字が年ごとに並んでいる。問いかけに驚きより確認の響きが強いところが、いかにも彼らしかった。美琴は古い帳面を一冊開き、二十年前の四月に引いた赤い線を指でなぞった。「最初は、会社が潰れたら困ると思っただけです。父の会社を救ってもらったのだから、今度は私が榊原家を支えなければいけないと……そう思っていました」口にすると、喉の奥へ乾いたものが引っかかった。救ってもらった、という言葉を二十二年間、何度使ってきただろう。征士郎に言われたからではない。喜和子に恩を説かれたからでもない。美琴自身がそう信じることで、朝から深夜まで働いても名刺一枚与えられず、経営判断へ口を出した時だけ「妻は家庭を見ていればいい」と笑われる日々に意味を与えていた。けれど、帳簿を一冊ずつ外へ出してみると、その意味だけがひどく脆かった。久世はページを数枚めくり、右端に並んだ小さな記号を見た。「△の横に二重線。これは何です」と尋ねられ、美琴は当時の記憶を探すまでもなく答えた。支払い延期を取引先が二度以上受け入れている印、翌月に現金が足りなければ取

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     榊原医療開発本社の一階ホールには、午前十時を過ぎる前から報道陣が集まり始めていた。 正面の壁には会社の紋章。中央には白い布を掛けた長机が置かれ、その前へ複数のカメラが並んでいる。照明の熱と機材の金属臭が、広い空間へ薄くこもっていた。 征士郎は開始予定時刻の五分前に現れた。 濃紺のスーツ。黒ではない。喪に服す夫ではなく、生還した妻を迎えたい男として見せるためだった。襟元は整い、頬にはわずかな疲労が残っている。無精髭はなく、ただ目の下だけを薄く落ちくぼませていた。 彼の隣には華帆がいた。 柔らかな灰色のワンピースに、薄い黒のカーディガン。顔色は白く、口元にはほとんど色がない。長い袖から覗く手首は細く、片手は胸元へ添えられている。 妊娠していることは伏せられていた。 記者たちが一斉に立ち上がり、光が何度も瞬いた。 征士郎は深く頭を下げた。「本日は、妻・美琴の件でお集まりいただき、ありがとうございます」 低く、静かな声だった。「まず、妻が生きて戻ってきたことを、夫として心から喜んでおります。事故現場では生存が絶望視され、家族葬まで行いました。あの時のことを思えば、今も妻がこの世にいるというだけで、言葉にできないほど救われています」 華帆が目元へ手巾を当てる。 記者の一人が、すぐに質問した。「奥様とは、その後お会いになりましたか」 征士郎は一瞬、言葉を飲み込むように伏し目になった。「いいえ」 会場がざわめく。「妻は現在、九条家の本邸にいると聞いております。しかし、家族である私たちには居場所の詳細も、治療状況も知らされていません。面会を求めても、弁護士を通せという回答しかありませんでした」「奥様ご自身が面会を拒否しているのでは?」「事故直後の妻が、どこまで自分の意思で判断できているのか。私はそこを心配しています」 征士郎は記者を正面から見た。「妻は崖から転落し、頭部にも重い傷を負いました。長年、不眠や強い不安にも苦しんでいた。そんな妻が目覚めて間もない時期に、家族から隔離され、五年間も生存を隠していた人物の保護下へ置かれているのです」 九条冬真という名を、征士郎はまだ口にしなかった。 先に、死亡を偽装した人物という形を置く。 記者たちの間で、紙をめくる音が増える。「九条家が奥様を監禁しているとお考えですか」「断定するつも

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第20話 返ってきた印鑑

     白い紙の上に、二つの「榊原美琴」が並んでいた。 一つは、美琴が役所の確認室で書いたもの。 もう一つは、印鑑登録の廃止と再登録を申請した書類に残されていたものだった。 文字の大きさも、線の細さもよく似ている。 けれど最後の一画だけが違う。 本物は右上へ細く抜け、偽物は下へ落ちていた。 美琴は鑑定用の机へ左手を置き、指定された文章をもう一度書いた。 右肩を固定しているため、筆記にはまだ慣れない左手を使っている。それでも、幼い頃から身体へ染み込んだ字の運び方までは変わらなかった。「普段は右手で書かれるのですね」 向かいに座る筆跡鑑定人が尋ねた。「はい」「事故以前の筆跡も必要です。契約書、銀行関係、手紙など、ご本人が書いたことを確認できる資料はありますか」 久世が革の鞄から複数の書類を取り出した。「銀行の過去の届出書、榊原医療開発の取引先へ送った礼状、寺の記帳簿、本人が保管していた資金繰り帳です」 古びた大学ノートが机へ置かれる。 帳簿の表紙には、長年触れ続けた指の跡と、薄い油染みが残っている。 鑑定人は拡大鏡を使い、一つずつ線の特徴を確認した。「偽造された申請書は、かなりよく模倣されています」「二十二年間、私の署名を見ていた人がいます」「ご主人ですか」「はい」 美琴は偽造された文字を見た。 征士郎は、会社の契約書へ署名する美琴の手元を何度も見ていた。 役員の妻として礼状を書く時も。 銀行へ提出する説明書へ名を記す時も。 父の命日に寺の記帳簿へ筆を置く時も。 書き方を知る時間は十分にあった。 それでも、美琴が宗一郎から教わった最後の払いだけは再現できなかった。「長く見ていれば、形は真似できます」 鑑定人が言った。「ただ、字の終わらせ方や、筆圧が変化する位置、線を離す直前の動きは、書き手自身の習慣が出やすい。こちらは別人が模した可能性が高いと思われます」「正式な鑑定書をお願いします」 久世が答える。「印鑑登録の復旧手続きと、偽造文書に関する申立てへ使用します」 鑑定を終えた後、美琴たちは役所の別室へ移った。 机の上には、印鑑登録廃止届と、新たな印鑑を登録するための申請書が並べられている。 新しい実印の印影は、均一で整っていた。 美琴が使っていた印鑑には、「琴」の左下へ小さな欠けがある。宗一郎が作らせ

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第19話 九条家の客ではない

     九条家本邸の会議室には、窓がなかった。 黒い木の長机と、壁際に並ぶ書棚。天井へ埋め込まれた照明は白く、朝とも夜ともつかない光を落としている。 美琴は長机の末席に座っていた。 右肩の固定具はまだ外れていない。左脚にも硬い装具が巻かれ、椅子の脇には杖が立てかけてある。脇腹の傷は、長く座っているだけでも鈍く疼いた。 それでも、美琴は背筋を伸ばしていた。 机の中央には、九条家が美琴の保護へ使った費用の一覧が置かれている。 九条総合医療センターでの緊急手術。 集中治療室と個室の使用料。 二十四時間の警護。 崖上と周辺道路の調査。 久世の弁護士費用。 筆跡鑑定、医療記録の照会、役所への書類保全請求。 そこへ、独立した医療機関での精神鑑定費用まで加わっていた。 合計額を見て、美琴は一度だけ息を止めた。 普通に働いて返せる金額ではない。 正面には九条紫が座っている。 濃い墨色の着物に銀の帯。細い指で費用一覧の頁を押さえ、老いた目を美琴へ向けていた。 冬真は美琴の隣ではなく、長机の右側に座っている。腕を組み、会議が始まってから一度も資料へ視線を落としていなかった。 紫が口を開く。「あなたが本邸へ入ってから、九条家の人員と資金がどれほど動いたか、お分かりですか」「一覧を拝見しました」「数字を読める方なら、感想もあるでしょう」「私一人へ使うには、大きすぎる金額です」「その通りです」 紫は淡々と答えた。「あなたは夫に殺されかけ、崖下で冬真に拾われた被害者です。九条家が救助と治療を行ったこと自体を問題にするつもりはありません」 そこで言葉を切り、冬真を見た。「ですが、その後も病院、護衛、弁護士、調査員を継続して動かしている。冬真の私情によってです」「俺が決めた」 冬真がすぐに口を挟んだ。「美琴へ請求する必要はない」「あなたには聞いていません」「俺の金をどう使おうが――」「冬真」 美琴が呼んだ。 彼の顔がこちらへ向く。「私に話させてください」「お前が払う話ではない」「それを決めるための会議です」「決まっている。俺が払う」 冬真の声には、議論を終わらせる力があった。 だが美琴は目を逸らさなかった。「それでは、私はまた何も知らないまま、誰かが支払った場所に座ることになります」「榊原と同じにするな」「同じには

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